HU-plus(vol.09)2019年度5月号
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松下幸之助さんのオーラ「島耕作取材からみる日本の未来」をテーマに、学生たちに講演広島大学 学長越智 光夫1952年生まれ。愛媛県今治市出身。広島大学医学部卒業後、整形外科に入局。1995年島根医科大学教授に就任。2002年広島大学大学院医歯薬学総合研究科教授に就任。膝軟骨損傷の患者から採取した細胞を培養し、患部に移植する三次元自家培養軟骨移植を開発した。2015年紫綬褒章を受章。現実的なステップアップが重要。やみくもな行動ではなく、学びは真似をすることから。04Hiroshima University Magazineた。その絵を見た母親が絵画の個人レッスンをつけてくれて、幼稚園から小学3年生まで約4年かけてデッサンから油絵、水彩画、彫刻まで一通り習いました。ただ、全部漫画みたいな絵になってしまい、先生に怒られるので、嫌気がさしてやめました。今度は「中学受験しなさい」と言われて、塾通いと家庭教師の指導に追われる毎日。その合間に家でずっと漫画を描いていました。越智:すると小学校時代は漫画を描きながら受験勉強も?弘兼:はい。夏休みの1カ月で手塚治虫『地球大戦』という約100ページの漫画をそっくりに描くという完全模写をしました。模写を通して、物語のテンポや白黒の使い方を自然に学べたんですよね。だから真似をすることは、実はとても大切なことだと実感しました。いろいろなものを見て真似をして、それから自分のオリジナリティができますからね。越智:同感です。すぐにオリジナリティを求める今の風潮には賛同しませんね。学ぶというのは真似をすることから始まるものですから。中学高校時代はどのように過ごされていましたか?弘兼:当時はまだ珍しい中学受験を経験して、地元の高水高等学校付属中学校に入学しました。中高一貫校で高校受験がないため、自由に過ごしていましたね。大学受験は都会を求めて東京の早稲田大学と慶應義塾大学を受験しました。越智:早稲田大学の法学部で学ばれたと。弘兼:学部にこだわりはありませんでした。自分の将来を明確に見据えて大学に入る人は意外と少ないと思うんですよね。僕の場合、合格したのがたまたま法学部だった。だから法律家になろうとは思っていませんでした。大学では漫画研究会に入部して、漫画を描いていました。そのころは漫画家になる気はありませんでしたので、就職活動期になると、自分の絵が生かせる広告関係の職業を目指すように。当時広告を幅広く打ち出していた松下電器産業(現・パナソニック株式会社/以下、松下電器)、サントリー、資生堂の3つに絞って就職活動をし、松下電器に入社しました。越智:なぜ松下電器を選ばれたのですか?弘兼:最初に採用通知が来たからです。就活生は青田買いの時代で、多くの会社の募集が7月開始の中、メーカーは5月ごろに始めるところが多く、その時すでに採用通知が届いたので、ここにしようと。松下幸之助さんにも会えるぞという期待もありました。力は切だ

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