HU-plus(Vol.8)2018年12月号
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おち・みつお●1952年愛媛県生まれ。1977年広島大学医学部卒業。整形外科医。2004年に内閣府の日本学術会議会長賞、2010年に文部科学大臣表彰科学技術賞、2015年に紫綬褒章を受章。2007年~2011年、広島大学病院長を務める。2015年、広島大学学長に就任。越智:広島大学は東広島市の中心から離れています。社会との接点が少ないところを指摘されるのですが、学生時代にアルバイトなど、社会との接点はあった方がいいと思われますか。高岡:大学から社会へ出る前に、アルバイトでお金を頂戴するという経験は貴重です。キャンパスの中では学べない人間関係も学べますし、社会に出てからの機微などを学ぶには良いのではないかと思います。「成功するために何をすべきかずっと考えていた」越智:卒業後、ネスレ日本に就職されました。高岡:非常に明快な理由がありまして、父親が私の11歳の誕生日に42歳で亡くなったのですが、実は祖父も42歳で亡くなっていて「うちはみんな短命なので、健康には気を付けなさい」と母親に言われていました。就職する時に「42歳で死ぬかもしれないとしたら、年功序列ではない外資系の会社がいいのかな」と思ったのです。大学ではマーケティングを学びました。私はまだバブル前の1983年の卒業なのですが、すでに女性の間ではブランドもののバッグが人気を呼ぶなど、ブランドへの憧れがありました。「不思議な力があるブランドでたくさんの人を幸せにしたい」という志に近いものを見つけたので、それをかなえられる会社を選びました。そういう仕事はやっぱり上のポジションにいないとできません。日本の会社だと42歳ではまだ係長くらい。だから外資系の会社に入りたいと考えたのです。越智:外資系の会社もたくさんありますが、なぜネスレに。高岡:神戸には外資系企業はあまりなくて、ネスレとアメリカ系の会社だけでした。母親を残して一人で東京に行くことは考えられなかった。どちらかの会社に入ろうと考えたのですが、ネスレはヨーロッパの会社で年金が手厚かった。「42歳で死んだとして、結婚して子どもがいても路頭に迷わせるようなことはないだろう」とネスレを選んだのです。越智:ネスレは当時から就職先として人気があったのですか。高岡:全くなくて、大学の先生からは反対されました。当時、神戸大学の経済学部や経営学部の卒業生の就職先は商社や銀行が多く、それ以外だとパナソニック(当時:松下電器産業)などのメーカーがほとんど。外資系というチョイスはなかったのです。越智:英語はどういうふうにして勉強されましたか。越智光夫越智光夫広島大学 学長広島大学 学長の志を見つけよう。004
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