HU-plus(Vol.7)2018年8月号
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❶早稲田大学時代。1960年ワールドカップチリ大会予選に出場。前列右から2人目が川淵さん❷古河電工時代の川淵さん(右)❸1993年5月15日Jリーグ開幕式典で開会を宣言する川淵さん❹2016年9月22日Bリーグ開幕戦で(写真は川淵三郎氏提供)環境だとかも含めて理想とする姿を頭に置いて、試行錯誤しながら、方向性を決めて進んでいったんです。それがすごく良かったのではないですか。これがなかったら、Jリーグが全然違う方に行ったかもしれません。あるべき姿というものをまず頭に描いて、それに向かっていけたというのもラッキーでした。それだけ世界を知っていたというわけですね。越智:チーム名に企業の名前を入れないで都市名にすることにも、いろいろ反発があったと聞いています。川淵:ええ、すごく反発があって一番苦労しました。当時、プロ野球が断トツで人気のあるスポーツだったけど、他のスポーツもみんな企業スポーツでしょう。地域に根ざしたスポーツクラブなんていうのは日本中どこにもなかったのです。 例えば浦和レッズは三菱自動車がバックアップしているのですが、企業の名前を出すとトヨタや日産の社員は「あんなよその会社のチームを応援するか」となってしまう。しかし企業名が付いていなければ、自分の町のチームだから応援するということになります。だからこそ企業名を外した方がいい、というのが最も分かりやすい説明でしたね。越智:そのほかに、Jリーグ設立時にご苦労されたことは何でしょうか。川淵:各クラブを法人化する、独立した法人格を持たせるということですね。もともと各企業の一部門としてサッカー部があったわけです。「独立採算で法人化したら赤字になるに決まっている。誰が赤字補てんをするんだ。そんなばかな会社を川淵は何でつくるんだ」と攻撃されました。 独立採算にして、収入や支出を世間にオープンにすることが、そのクラブを応援してもらえる一番のもとですよ。プロ野球はそのころ一切オープンにしてなかったけれど、世界のサッカー界は全部オープンにしていた。経理の中身が分かれば、スポンサー料をあるべき姿をまず頭に描いて、それに向かって進んでいく●❶●❸●❹●❷写真:フォート・キシモトⓒB.LEAGUE越智:支店の部長として活躍されていた51歳の時に、その後の人生を左右するような出来事があったと聞きました。川淵:ええ。突然、関連会社への出向を命じられたんです。本社に戻っていずれは取締役くらいにはなれるだろうと思っていたのが「関連会社に出向しろ」でしょう。それはショックでしたよ。正直なところ「オレのことを連中はまるで分かってない。こんな会社にいたってしょうがない」と思いました。 ただ、現役の選手だったらどこでも採ってくれたでしょうが、もう現役ではない。何が僕の取り柄か考えてみると、何もないんですね。今まで会社の名刺で扱ってくれただけで、僕自身の実力を認めてくれていたわけではないことが、その時はっきり分かった。そのまま関連会社に出向しても先が見えているので「もう一遍サッカーに戻ろう」と決めました。日本のサッカーのために働こうと。左遷ということがなかったら、間違いなくサッカー界には戻っていないです。越智:まさに人生のターニングポイントですね。川淵:いろいろ人生のターニングポイントはありましたが、最後のターニングポイントですね。当時のサッカーはバックパスしたり、汚いことを平気でやったりしていたので、それを全部変えてやろうじゃないかという意気込みで戻ったのですよ。越智:1993年にJリーグがスタートして、初代チェアマンに就任されました。その時の思いと、始まってから進んでいった方向とは一致していましたか。川淵:どういう姿を日本のプロサッカーとして目指すべきか、ドイツのプロクラブが念頭にありました。クラブハウスとかグラウンドの005

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