HU-plus(Vol.7)2018年8月号
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越智:今日は学生に講義をしていただくということで来ていただきました。どういうふうな人生を歩んでこられたのか、お尋ねしたいと思っております。まず、小さいころは、どんな子どもさんだったのでしょうか。川淵:やっぱりスポーツ好きでしたね。物心ついたころは戦争のさなかでしたけど、近くの砂浜で相撲を取ったり、駆けっこをしたり、野球をしたり、神社で木登りをしたりと、典型的なあの時代の子どもでした。小学校6年生くらいの時は3、4㎞くらいの遠泳をやりました。足や体の体幹を自然と鍛えられたことが、後々スポーツをやる体づくりにつながったのでしょう。今の子はそういうことができないのが、すごく残念です。越智:その時の夢というのは何でしょうか。川淵:戦争中だったから、やっぱり陸軍大将でした。敗戦後は、夢を持ったことかわぶち・さぶろう●1936年大阪府生まれ。早稲田大学卒業後、実業団サッカーの名門・古河電工へ入社。東京オリンピック(1964年)出場。1991年退社後、Jリーグチェアマン就任。以後2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会副会長、日本サッカー協会会長などを歴任。2013年~4年間、首都大学東京理事長。日本トップリーグ連携機構会長など、スポーツ界をけん引するトップの座にあり続ける。がないですね。ちょうど小学校4年生の時、児童文化研究家として知られていた吉岡たすく先生が赴任してこられた。児童の中からメンバーを選び、NHKのラジオ放送劇に出演させたんです。僕もその一人でした。 先生は「役者になるためにやっているのではなく、自分の歩むべき道は自分でちゃんと見つけなさい」と口癖のように言われていました。越智:どうしてサッカーの道に進まれたのですか。川淵:中学校まで演劇と野球をやっていました。大阪府立三国丘高等学校に進学したんですが、野球部は全く弱かった。ただ、サッカー部は前年度に全国高校選手権で浦和高等学校に次ぐ準優勝だったんですね。国体も準優勝だったから、全国的にサッカーの強い高校だったのですよ。 ただ、高校に入った時には優秀な選手は全員卒業していて、残った10人くらいの選手たちが細々とサッカーをやっていた。その時は、サッカーをやる気は毛頭なかった。そもそも、したことがなかったんですから。そうしたら夏休み前に「サッカー部に入ったら、高松で大会があるから連れて行ってもらえるよ」と言われ、四国に行けるなら入ろうと。あの時、大阪代表で高松に行けていなかったら、僕はサッカーなんかやってないですね。越智:人生何があるか、分からないものですね。川淵:本当にそうなんですよ。サッカーなんて面白くないから辞めてやろうと思ったのだけど「四国に行ったんだから辞めないでくれ」と言われ、そのうち辞めるつもりで続けていたら結構、これが面白くなったんです。高校2年生になると、ドリブルのレベルがすごく上がって、大阪でも優秀な選手と認められるくらい活躍できるようになった。 そのころには、サッカーがもう好きで好きでたまらない。3年生の時も勉強せずに、全国高校サッカー選手権に出ました。大学受験に落ちて浪人しましたが、予備校に行かず、毎日のように高校に行っては後輩と一緒にサッカーをやっていました。当たり前ですけど、1年後もまた落ちてしまいました。越智:そして早稲田大学に入られたわけですね。川淵:二浪の時、都市対抗サッカーの大阪予選に高校のOBチームで出場したんです。相手は日本代表経験者が5人くらいいるクラブチーム。そのメンバーに後年、日本代表の自分は何のため1万時間練習をやり続けると、本当に好きかどうか見えてくる川淵三郎氏川淵三郎氏Jリーグ初代チェアマンJリーグ初代チェアマン第1特集◎[対談]第1特集◎[対談]プロサッカーJリーグを初代チェアマンとしてけん引し、プロバスケットボールBリーグ設立の立役者でもある川淵三郎氏。新入生向けに開講された特別講義「世界に羽ばたく。教養の力」で、このほど本学を訪問しました。サッカーとの出会い、人生の決断、そして若い人に送るエール、改革への熱い思いなどについて越智光夫学長が伺いました。003

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