HU-plus(Vol.7)2018年8月号
13/32

国際色豊かな研究室のメンバーキラル磁性体と情報伝達井上教授らが合成したキラル磁性体Green needleFeGe(P432)Tc=35 KP6₃22[Cr(CN)₆][Mn((S)-aminoala)]•2H₂OP6₁, triMeOPhNN-Mn(hfac)₂[Cu{(S)-pn}H₂O]₄[Cu{(S)-pn}]₂[W(CN)₈]₄•2.5H₂OCrNb₃S₆(P6₃22)化学実験で物質を合成し、物性を評価するメモリーの磁気記録材料をはじめとして幅広い用途がある。現在使われているメモリーは、1か0かの2値で記録しているが、この新しいメモリーならば0から数百万の値を一つの素子に記録できるようになる。 キラル磁性体は情報転送にも応用できる。現代のICT社会を支えているコンピューターは、金属製のワイヤを流れる電流により情報の伝送・処理を行っている。しかし、発熱に伴う膨大なエネルギー損失は近年深刻な問題となっている。 最新の中央演算処理装置(CPU)に用いられる金属ワイヤは10nmという細さだが、例えば理化学研究所のスーパーコンピューター「京」を稼働する場合、冷却装置に13MWもの電力が必要だ。これは原子力発電所1基の発電量の10分に1に相当する量。世界規模で考えると電力の約4分の1が家電や車に搭載されたマイコンを含めて、ありとあらゆるコンピューターで熱として捨てられているという。 従来の強磁性体を用いた情報伝達では、電子の持つ磁気(スピン)の回転軸がその方向をゆっくりと変える歳差運動により情報が伝達されるが、運動が途中で減衰して、情報が短距離しか伝わらず、しかも歳差運動のエネルギーが熱に変換されてしまう。 しかし、電子のスピンの向きがらせん状に連続的につながるキラル磁性体を用いると、スピンだけを動かし、エネルギーはほぼゼロで情報を無限に伝達できる。理論により可能性が示され、大阪府立大学による実験で実現の可能性が見えてきた。 井上教授は「消費電力がゼロに近い素子は夢ではない」と期待を込める。残念ながら、現在のキラル磁性体は-150℃という低温下でしか磁石の性質を保てず、実用化には壁がある。 井上教授は2004年、前職の自然科学研究機構分子科学研究所(愛知県岡崎市)から、広島大学大学院理学研究科化学専攻の教授に転じた。広大では2013年にキラル研究のインキュベーション拠点を立ち上げ、2017年から自立型研究拠点として、さらにスケールアップ。並行して、現在は日本学術振興会に「スピンキラリティを軸にした先端材料コンソーシアム」(2015~19年度)が採択され助成を受けている。 拠点には40人のメンバーがおり、コンソーシアムでは世界中の約200人が共同研究を行っている。人材育成にも努めており、博士号取得者5人が国内でポジションを得ている。 井上教授はドイツ人研究者と並び、この分野のパイオニアで、1999年に出した論文がこの分野を切り開き、環境問題とも相まって世界中でブームになった。現在、年間数百本の論文が出されているが、2016年度は日本物理学会誌の高引用論文10報のうち、チームの論文は4報を占める。 井上教授は「学術成果が注目されてうれしい。早く新素材につなげて人類に貢献したい」と語る。常温で動くキラル磁性体を作るため、さまざまな元素の組み合わせに人工知能(AI)によるシミュレーションを取り入れ、化合物の設計を進めている。まだ実際の合成にまでは至らないが、有望な物質を見いだしている。 企業からの共同研究の申し込みも多数寄せられ、これからが正念場。世界と切磋琢磨しつつ、競争が激化する中、研究組織運営と研究の両立が課題だ。        取材・文/日経サイエンスせっさたくま012

元のページ  ../index.html#13

このブックを見る