2019年度文化功労者に小林芳規名誉教授が選ばれました。今号は小林先生に角筆(かくひつ)の世界を案内していただきます。 もともと私の研究テーマは漢文訓読史で、資料を探しに京都や奈良の古寺を訪ねていました。高野山のお寺で漢籍の資料が見つかり、その展覧会を見に行った時に、たまたま漢字の横に爪痕のような文字や符号が記されているのに気付いたのです。1961年、角筆との出合いでした。それから1年後、東京の大東急記念文庫にある平安時代の経典を調べていたら、2点目のくぼみ文字が見つかりました。3点目は、原本でなく私が持っていた漢書の写真複製本で見つけました。 角筆文字には墨などの着色がなく、光の当たり具合でやっと見える程度なので、他の研究者からは全く見逃されていました。それから角筆文献の調査を始め、各地の古文献にくぼみ文字が残されていないか確かめました。 研究を始めて26年後、見つけた角筆文献が100点になり、およその輪郭が分かってきたので『角筆文献の国語学的研究』(汲古書院、1987年)という本にまとめました。時代は奈良時代から江戸時代にわたり、大部分は漢文の読み方を示した仮名や符号などの訓点資料でしたが、手紙や古文書、さらには上代の木簡からも角筆の書き込みが見つかりました。昔の人は、ろうそくの光を当てながら、角筆で書いたり読んだりしたのだろうと思います。また、研究を進める中で、角筆で書いた言葉の性格もある程度分かってきました。角筆で書いたものは目立たないから、正式な文書ではなくて私的な文書です。いわば毛筆を用いて墨で書いた文字がハレなら、角筆で書いた文字はケなのです。当時の口語や俗語なども書き入れられていました。 その時までに見つかった文献は、京都や奈良の古いお寺に伝わっているものがほとんどでした。くぼみで文字を書く世界がどのくらい広がっているのか見極めたくて、広島大学を定年退職したのを機に、10年掛かりで北海道から沖縄まで日本中を調査しました。その結果、47都道府県全てで角筆文献を見つけ、かつて日本全国で角筆が使われていたことが判明。発見した文献の数は3250点余に上り、中には土地の方言で書かれたものもありました。 へこみが薄くて読みづらい文献もあった中、調査を支えたのは「角筆スコープ」。理学部の吉沢康和教授(当時)に開発していただいた特別なライトです。これを引っ提げて日本全国を回りました。角筆スコープのおかげで、調査は順調に進めることができました。古文献に隠された「角筆」の謎を解き明かす特別版こばやし・よしのり/1929年生まれ。主な著書に『角筆文献の国語学的研究』『平安時代の仏書に基づく漢文訓読史の研究』(全10巻) など。1991年恩賜賞・日本学士院賞受賞。出合いは偶然発見した爪痕のようなくぼみ全国各地で見つかった角筆で書かれた私的な文書『即身成仏義[江戸初期]』中の角筆文字。通常の照明では分かりづらい(左)が、光の当たる角度を調節する(右)と、「解脱」という文字の右側にくぼみ文字が書き込まれていることが分かる(広島大学総合博物館にて常設展示)小林 芳規 名誉教授 専門分野:国語学11
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