越智:京都大学医学部に入学されてからは、どのような学生生活を送られていたのですか。本庶:最初のうちは本当にいろいろなことをやりましたね。オーケストラでフルートを吹いてみたり、朝までマージャンをしたり――。越智:そんな中、基礎研究の道へと進まれたのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。本庶:医学部の同期生に、基礎研究に興味のある学生が5、6人いて、彼らと「教授に飯を食べさせてもらう会」というのを作りました。基礎研究をしている先生たちにコンタクトを取って「先生の研究について、飯を食いながら話を聞きたい」と連絡すると先生が自宅に招いてくれるんです。脳神経解剖学の医学部で基礎研究の道へ京都大学医学部入学の頃 (1960年4月)広島大学 学長越智 光夫おち・みつお/1952年生まれ。愛媛県今治市出身。広島大学医学部卒業後、整形外科に入局。1995年島根医科大学教授に就任。2002年広島大学大学院医歯薬学総合研究科教授に就任。2007年~2011年まで広島大学病院長。2015年紫綬褒章を受章。まだ分からないものにこそ、投資が必要ば、なかなか言うことをきかない、扱いにくい子どもだったはずです。越智:子どものころに、なりたかった職業などはありますか。本庶:小学校の夏休みに理科の先生が校庭に移動式の天体望遠鏡を持ってきて、土星を見せてくれたんです。その時、土星のリングがきれいに見えたことにとても感動して、宇宙の果てには何があるのかと興味を持ちました。自分で宇宙関連の本なども読み、天文学者になりたいと考えていました。越智:そのころに影響を受けた方はいらっしゃいますか。本庶:伝記が好きでした。野口英世の伝記を読んだことは、医学部を目指すきっかけの一つになっています。越智:医学部を目指すための勉強は、いつごろからされていたのですか。本庶:高校に入るくらいから、真面目に勉強するようになりました。自分の興味に基づいて教科書よりどんどん先を自分のスタイルで、という感じの勉強方法でした。越智:それで京都大学医学部へ進まれたんですね。京都大学を選んだのは、お父様の勧めもあるのでしょうか。本庶:父は僕が忖度できない人間だということを見抜いていたのでしょう。「好きなことを思う存分やるなら京大がいい」とアドバイスしてくれました。また「これからは英語ができないとだめだろう」ということで、中学生からハワイ出身の日系人のネイティブスピーカーに英語を習っていました。その後のあらゆる場面で英語の心配をせずに済んでいるのは、父のおかげだと感謝しています。自分の続ける。04Hiroshima University Magazine
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