ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

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概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

53④縁の下を支えて自らも被災者として支援に従事当時:医療政策室 医療政策グループ 契約専門職員(派遣チームの後方支援要員として現地雇用) 渡邊智明 私は3.11 当日、福島県内の前勤務地にいた。若干揺れが長かったが、浜から80km 以上離れているせいか本棚が倒れるほどではなく、電気は問題なくガスも1日で回復した。ただ水道は生まれて初めて、1週間ほど給水車のお世話になった。 確かに、店の物は少なくなりコンビニは閉鎖し、給油可能なガソリンスタンドを見つけるのが至難であった。とはいえトイレの排水の確保以外は当分、生活できた。 しかしテレビやラジオ以外の確実な情報を持ち合わせていない私たちは、忌まわしい放射能汚染が広がっているとは夢にも思わなかった。「1m 超の厚さのコンクリートに加え20cm の鋼鉄の格納容器が爆発、ましてやメルトダウン等起こるはずがない」「チェルノブイリと全く違う」と確信を持って何べんもテレビで言っていたのは、なんだったのか。世界に誇る日本の優秀なシンクタンクの面々ではなかったのか。 定年後楽しみにしていた家庭菜園、相馬での海釣り、山菜・キノコ採取、川釣りは全て、生きているうち不可能となった。原子炉の中の状況把握すらできていない。 今住んでいる80km 以上離れている場所だって、通常よりはるかに高い空間線量がこれからも何十年にもわたって続く。こんな理不尽があってはならないが、現実である。外に漏れても制御できる技術を持ち合わせていない以上、これは人災であり、いかなる理由を立てようと断じて許すことはできない。 震災から約1カ月後の平成23 年4月18 日から9月30 日まで、広島大学の一員として福島県庁内のオフサイトセンター(OFC)及び福島県立医大の神谷オフィスを拠点に活動させていただいた。 OFC においては、東京電力福島第一原子力発電所の情況や各種データ及び各種組織よりの情報を適時医療政策室の対策本部へ送信することを主な任務とした。 福島県立医科大学に移ってからは広大の医師・医療技師・看護師・事務職員並びに神谷研二先生の各地への送迎が主となった。その他、毎日の活動予定・報告及び簡単な連絡はメールにて行った。毎朝、医大対策室でのミーテング(医大関係者及び長崎大学医師・看護師が参加、中途まで自衛隊員も)では、広大の先生方と同席し情報の共有を行った。午後3時ごろには関係地点を結んでのTV 電話の傍聴に参加した。 特別な苦労はしないで済んだが、先生方の宿泊施設が県の施設から民間ホテルへ移った時に、若干駐車場の件で不便があった。OFC では当初スキャナーの操作の未熟さにより、担当の職員に多大なご迷惑を与えてしまった。 川内村においての一時帰宅に対する対応(線量測定、具体的な説明、アドバイス等)に参加させていただいたことは大変勉強になった。未曽有の危険を顧みず事故の直後より私たち被災者の立場に立ち、現在まで惜しみなく全力で立ち向かっておられる広大の関係者に心より感謝申し上げる。福島県立医大で毎朝行われたミーティングの様子