ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学
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東日本大震災・福島原発災害と広島大学
52第3章 被災地に寄り添う④縁の下を支えて非常事態に備えた要員確保を 病院運営支援部 情報システムグループ 事務職員(当時:社会連携・広報・情報室情報化推進グループ 事務職員) 西田雅彦 平成23 年3月29 日から4月4日まで、緊急被ばく医療対策本部と現場医師・看護師・技師との連絡調整、及び非常事態発生時の医師・看護師・技師の輸送を主な用務として派遣された。ただ、期間中に福島県立医科大学と広島大学、長崎大学の連携協定調印式などが行われたため、学長や病院長、委員長たちの送迎や随行に多くの時間を要した。 待機時間中には対策本部への活動報告資料のほか、以前福島市に住んでいた経験や派遣中に得た情報を踏まえて、交通状況や店舗の状況などを後続班へ伝える引き継ぎ資料を作成した。 派遣が決まってから実際に派遣されるまでに相当な日数があったにもかかわらず、持参品や宿泊施設などの明確な情報が出発前夜のミーティングまで分からず、終了後に慌てて足りないものを買いに走らなければならなかった。派遣日数も延長されたため、来客や作業の予定を変更せざるを得なくなった。 現地に到着してからは送迎やOFC での待機だけで被災者や被災地に直接接することがなく、「自分の今の行動が被災者の役に立っているのか」と悩むこともあった。 地震発生から半月がたち崩壊した建物もかなり片付いていたが、国道4号線の福島市・伏ふしおがみ拝交差点のがけ崩れは衝撃的だった。地面が崩落して傾いた家の様子は今でもありありと目に浮かぶ。23 年7月の派遣時や24 年1月にプライベートで訪れた際にも復旧していなかったが、6月にようやく復旧工事が完了したようである。 そんな中でも、友人の勤めるゲームセンターをはじめとする遊戯施設がたくましく営業していたのが印象的だった。後日友人に聞いたところ、福島大学や福島県立医科大学などが休講となった関係で学生が多く来ていた、とのことだった。 活動期間の途中から医師が2人ともJ ヴィレッジへ移り、事務職員2人も遠方の送迎に公用車で向かったため、OFC には看護師しかおらず広島大学が自由に使える移動手段がないという状況が長時間生じてしまった。このような状況で作業員の被ばく事故などの緊急事態が発生していたら、必要な地域に必要な要員を輸送するという役目は果たせなかったであろう。 これは同時期に様々な行事が重なったためだった。幸いにも緊急事態が発生しなかったため問題とはならなかったが、常に有事を前提として緊急事態への待機要員をゼロにしないよう、案内・広報用の要員は別途確保すべきだったのではないだろうか。平成23 年3月13 日の福島市伏拝交差点付近(筆者の友人撮影)