ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

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概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

32第2 章 ヒロシマからフクシマへ④ J ヴィレッジを診療拠点に職種の壁を超え知恵出し合う病院運営支援部 医事グループ 主査(当時:病院歯科サテライトグループ 主査) 原 圭一 平成23 年4月8日~ 12 日、福島第一原発(1F)から20km 圏で1F、福島第二原発(2F)への立入作業を行う要員の前線基地となっていたJ ヴィレッジ内での作業員等に対する医療設備を充実させるため、施設内のメディカルセンターを緊急医療班の拠点(医療施設)として救急患者(除染済みの被ばく患者を含む)対応できるよう施設内の環境整備を行った。 事務の立場としての私の任務は緊急医療班の移転整備と現地における情報収集である。 初日は福島空港から現地に入り前任である廣橋伸之医師から施設内の案内と引き継ぎを受けた。 現地に着くと、全身防護服に身を包み出発を待つおびただしい数の作業員と、館内に流れる1F、2F 行きのバスの案内放送で辺りは騒然としており、この場が非常事態(事故発生後1月足らず)であるということを実感した。当時1F、2F で1日約2,000 人が働いていた。 東電が管理運営している本部には通信等の機能(FAX、コピー)が整備され、その付近には作業員が1F、2F へ持って行く食料品や防護服が段ボールに山積みにされていた。上層部の対応のまずさで報道からたたかれていた東電だが、現場で尽力されている人たちの姿を目の当たりにして強い衝撃を受けた。当時は報道制限が行われていたため現実が伝わりにくかった面もあるのだろう。 電気は供給されていたものの、断水のため手洗いの水もない状態であった。われわれはいわき市内のホテルから現地入りしていたため水や食料に困ることはなかったが、東電医療班は現地で寝泊まりし、風呂にも入れない状況での任務に頭の下がる思いであった。派遣チームはそれぞれ交代制(1クール4~7日)で、現地の担当者名簿(われわれを含む)は引き継ぎのため毎日更新された。それだけ過酷な任務だと言えた。 派遣期間中徐々にインフラは改善された。インターネット回線も整備され、施設内でテレビ会議もできるようになった。ただ、断水の状況は改善されなかった。 現地において、当時は事故が収束する目途もたっておらず(情報不足)、医療材料をはじめ様々な物資が不足した状況下で構成員それぞれが職種の壁を越え、知恵を出し合い、困難に立ち向かって任務を遂行できたことが私の中で得られた実感である。非常時においてだけではなく、日常的に助け合うという姿勢を持つことが大切であると思った。現実には1Fから緊急搬送された作業員への対応 難しいことかもしれないが。