ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

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概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

21②緊急被ばく医療調整会議の立ち上げ高齢者救えず、無力さ感じる                    マツダ病院消化器科 医師(当時:緊急被ばく医療推進センター 特任助教) 平田大三郎 広島大学に被災地への派遣要請があったのは、東北地方太平洋沖地震が発生した翌日の平成23 年3 月12 日午前中だった。同日午後、千葉県にある放射線医学総合研究所へ向かった。そこでは、被災地での現状の把握と対応について会議を行った。私は13 日に、ヘリコプターに乗って福島第一原子力発電所から63km 地点の福島市へ向かった。 谷川攻一先生を中心に広島大学は「三次被ばく医療機関」として放射線医学総合研究所などと合同で、福島市に「緊急被ばく医療調整会議」を立ち上げた。当初、混乱していた避難住民のスクリーニングと被ばく医療体制の整備に当たった。また広域搬送ルートを確保し、福島県立医大病院での体制作り、福島第一原子力発電所での負傷者搬送の手伝いを行った。 全国からは多くのDMAT が集合し、スクリーニングをする人数はそろった。しかし指揮系統がなかったため、谷川先生が主導して徐々に避難している人のスクリーニングが行われていった。 自力では歩けず、普段から経口摂取できないために老健施設に入っている高齢者は、避難所にも入ることができず食事もとれず、マイクロバスに入れられて多くの人が命を落とした。その報告を近くでただ聞いているだけだったことに、医師として無力さを感じた。  収容できる場所もなければ、医療資材もない状況で、何もできない自分がいた。活動を行っていた福島県庁では情報が混乱しており、街中も災害で混乱していたため、正しい情報も伝わりにくい中での作業は大変だった。 結局、医師としてこれといった役割を果たせたわけではないまま、谷川先生から指示をもらい手伝いを行った。滞在した5 日間は、1日中余震が絶えず起こり、原発の爆発も続いていた。この震災はどうなるのか分からない不安と、放射線という見えないものに対する不安の日々を過ごした。このような災害現場に入ったのは初めての経験であった。消化器医である前に、一医師であることを自覚しなければならないと思い知らされた。 緊急被ばく医療調整会議の様子