ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

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概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

16第2 章 ヒロシマからフクシマへ① DMAT 出動 平成23 年3月11 日の午後、テレビに映し出された光景は、堤防を越えて陸地を内へ内へと押し寄せる津波だった。同日夜、実質的には初めてのDMAT(災害派遣医療チーム)出動で山陽道を東へ向かう途中、県庁からの指示で呉から出航する海上自衛隊輸送艦「くにさき」に乗り込んだ。13 日早朝に横須賀港に到着し、波打ちひび割れた道路を北へ向かった。EMIS(広域災害救急医療情報システム)によるDMAT 本部からの指示された目的地は最終的に福島県立医大。福島市内に入ると住宅地の土砂崩れ、屋根瓦の損壊、スーパーマーケット前の行列などが目に入り、いよいよ気持ちはDMAT モードになった。 13 日の午後に福島医大に到着した。「国立呉医療センターチームと二本松市の男女共生センターへ向かうように」との指示。到着すると長い行列が視界に入り、その先には黄色い防護服に身を包んだDMAT スタッフがサーベイメータを持っていた。われわれも直ちに防護服を着ることになり、当初DMAT として出DMAT から緊急被ばく医療チームへ大学院医歯薬保健学研究院 応用生命科学部門救急医学 准教授 廣橋伸之動していたつもりであったが、緊急被ばく医療モードへの転換を余儀なくされた。任務内容は爆発事故以降、避難して来た住民や関係した消防、救急隊、警察、救護班、そして共生センターに出入りする関係者などの放射線サーベイであった。センター内には福島第一原発10km 圏内の病院から避難してきた患者120 人と医師、看護師、関係者が収容されており、放射性物質で汚染されているとの情報(未確認で出所不明)であった。私は佐々看護師と出入りする関係者のサーベイを行っていたが、収容患者の中に8人の重症者が判明したため、他のスタッフと共に救急処置等を行い他院へ搬送することにした。救急救命士から知り得た周辺の病院に電話をかけ続け、深夜の零時を過ぎたころ、搬送を無事終えた。14 日午前4 時に宿泊施設に到着。午後は福島医大でドクターヘリ運航調整補助等を行い、DMAT としての任務は終了。15 日に広島へ帰還した。 広島大学は三次被ばく医療機関でもあり、それ相当の研修を受けた経験はあるものの、ほとんど情報の入らない状況でのDMAT モードから緊急被ばく医療モードへの転換に戸惑いは否めなかった。しかし日ごろ救命救急センターで一緒に働いているスタッフや、出動を共にした国立呉医療センターのスタッフと臨機応変に行動できたことは貴重な経験となった。 私はその後も、緊急被ばく医療チームの一員として福島医大、OFC(オフサイトセンター)、J ヴィレッジで活動し、現在は第一原発救急医療室において活動を継続している。原発事故処理収束まで数十年かかるとされており、今後も災害医療、緊急被ばく医療に微力ながら関わっていきたいと考3月13 日男女共生センター前の筆者(左)と佐々看護師 えている。