ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

ページ
22/84

このページは 東日本大震災・福島原発災害と広島大学 の電子ブックに掲載されている22ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

12第1 章 2 年間の被ばく医療支援を振り返る気の抜けない日々を過ごす前広島大学病院運営支援部長、ヒロシマ平松病院事務長 西田良一 恥ずかしい話ではあるが、地震発生時、津波により大変な事態が生じるとは全く想定していなかった。テレビで津波の映像を見ても、福島第一原子力発電所がその後非常事態に陥るなど考えも及ばなかった。 平成23 年3月11 日は越智光夫理事・病院長が東京出張中であった。安否確認と共に今後の対応について連絡を取ろうと試みたが、携帯電話が繋がらない状態が続き、頭の中は不安が渦巻いていた。やっと電話が通じたのは、翌12 日未明であったと記憶している。 その後は、越智先生や浅原利正学長の指示を受け、広島大学が西日本ブロックの「三次被ばく医療機関」であることも踏まえ、緊急被ばく医療推進センター長の神谷研二先生を筆頭にさまざまな支援を開始した。裏方の責任者として、6月末に広島大学を去るまで気の抜けない日々を過ごした。 DMATチームは地震当日の夕刻いち早く車で出発した(呉から自衛艦で横須賀経由現地へ)。翌日に「広島大学緊急被ばく医療対策委員会」が立ち上がり、大学病院外来棟3階中会議室を拠点に、職員派遣や現地との連絡調整、法人本部との折衝等で、医療政策室の林茂雄リーダーや緊急被ばく医療推進センターの東久哉主査ともども土日もない状況が続くこととなった。 しかし振り返ってみて、いつ終わるとも知れないこの活動も全く苦にならなかった。活動に不可欠なヒト、モノ、カネについて、全く不安を感じることがなかったことが大きい。これも浅原学長、越智理事、茶山一彰病院長及び神谷センター長の後ろ盾があってのことだった。というのも、長崎大学が経費面を理由に看護師派遣を縮小するという話を聞いたからである。 人員派遣は病院だけでは負担が大きいため、放射線技師は技術センター、事務職員は法人本部の支援を受けた。4月18 日から福島大学事務職員OBを現地採用できたおかげで随分助かった。河本朝光理事や竹内哲弘秘書室長の側面援助があったことも忘れない。 この間、私自身が現地に赴いたのは一度だけだった。浅原学長が福島県立医科大学・広島大学・長崎大学の連携協力調印式出席のため、現地に出向かれた際に同行した。まだ東北新幹線が復旧しておらず、ダイヤも変則だった。終着の那須塩原駅から広島大学の派遣車両で約100km 離れた福島に向かった。途中の高速道路が波打っていたのが記憶に残っている。オフサイトセンター等も視察したが、日程がタイトで、本学職員の慰労に時間を割けなかったことが悔やまれた。 災害支援で感銘したことが多くある。神谷センター長や細井義夫教授の活動はもちろん、現場では谷川攻一教授、廣橋伸之准教授、岩崎泰昌講師以下救急科の先生方の献身的な働きに心から敬意を表する。貞森拓磨先生には、テレビ会議システムや現地派遣車両2台との無線通信・位置情報確認システムを構築していただいた。どれだけ支援活動に役立ったか計り知れない。 今回の災害は一面、人災といえるものがあったことは否定できない。私は広島生まれ広島育ちであり、平和公園を訪れることが度々ある。今回改めて感じたことは、慰霊碑の碑文のことである。 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」の碑文をめぐり議論があることは承知している。ただ、今回の震災をはじめ人災を繰り返さないことが、われわれに与えられた課題であることに論はないと思う。いま一度この碑文の示唆を肝に銘じたい。刻々と変わる状況に対応して開かれた緊急被ばく医療対策委員会の会合