ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

ページ
21/84

このページは 東日本大震災・福島原発災害と広島大学 の電子ブックに掲載されている21ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

11正確な知識の大切さ痛感理事・副学長、病院長 茶山一彰 平成23 年3月11 日14 時46 分、太平洋三陸沖を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は最大震度7という巨大な地震であり、それに伴って発生した津波を含めて東日本一帯に甚大な被害をもたらした。まずはその犠牲者、ご家族の方々に深く哀悼の意を表したい。 当日の午後3時から、広島市民病院で当時市民病院病院長であった大庭治先生と面会予定であった私は、テレビ画面の津波の映像にわが目を疑った。 それに継ぐ原発事故。どこまで真実が報道されているのかを確信できないまま、対策本部となった広島大学病院中会議室で、当時病院長であった越智教授と落ち着かない時間を長く過ごすことになった。 西日本ブロックの三次被ばく医療機関として広島大学から数多くの医師、看護師、放射線専門家、事務職員が現地に赴き、原発従事者、周辺住民の健康確認や医療、相談対応に従事することになった。最初の派遣部隊の一員として、私の所属する消化器・代謝内科出身の平田大三郎助教(現マツダ病院勤務)が出向していた。彼は本学原爆放射線医科学研究所所長の神谷研二教授の下で被ばく対策に当たった現地の生々しい様子を伝えてくれた。 平田医師は固形の携帯食料とペットボトルの水をポケットに入れて出発した。初日から数日間は食料も飲み水も自分が持って行ったものだけ。トイレの水も近くの川からバケツでくんできて流すといった状態だったという。彼は原発で傷病者が発生した場合の搬送を検討する会議などに出席しながら、さまざまな情報を収集してきてくれた。 彼が持ち帰った写真には、患者輸送用ヘリコプターで外傷患者を輸送した時の緊迫した雰囲気や、防護服とマスクに身を包んで傷病者の救出に向かう救急医学教授で派遣チーム第一陣のリーダーであった谷川攻一先生の様子が写されていた。宿泊施設で自分の持ち込んだ携帯食料ばかり食べていた数日後、出されたカレーのおいしさに感動したという話を聞いて、私たちは日々何不自由ない暮らしをしていることに改めて気付かされた。 幸い私が病院長に就任して以降、支援体制は徐々に縮小することが出来ている。震災発生から2年を迎え、被災地で悲惨な状況を見ることはほとんどなくなっている。しかし以前の居住地域に戻ることができた住民も、除染作業の遅れや放射性物質のもたらす影響に関しての誤った理解による風評被害に悩まされ、なかなか元通りとはいかない現状が報告されている。そうした姿を眼にするにつけ、正確な知識の提供・普及の大切さを痛切に感じる。引き続き原医研と連携して、その務めを果たしていきたいと考えている。福島に赴くスタッフを見送る(広島駅)