ブックタイトル東日本大震災・福島原発災害と広島大学

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概要

東日本大震災・福島原発災害と広島大学

10第1 章 2 年間の被ばく医療支援を振り返る 平成23 年3月11日午後、地震が東北地方を襲った時、私は会の打合せのため、広島から羽田行きの機内にいた。3月31日で病院長としての2 期4 年の任期が終わる。その直前の、人生の中でも最も大きな出来事の一つであった。羽田空港からの公共交通機関はすべて止まっており、8 時間待ってタクシーに乗り込み、午前2時に予約していたホテルにたどり着くことができた。 3月12 日には、神谷研二・原爆放射線医科学研究所所長と連絡がつき、国の原子力緊急事態宣言を受けて直ちに「広島大学緊急被ばく対策委員会」を設置した。広島大学は西日本ブロック唯一の三次被ばく医療機関であり、原爆放射線医科学研究所、大学病院などが連携し、その役割を果たす責務がある。 緊急被ばく医療に関する医療支援チームや専門家の派遣、住民の汚染検査と資料管理、住民や学校・行政等に対する放射線影響に関する情報の提供である。これらを神谷所長、高度救命救急センターの谷川攻一教授を中心に積極的に行ってきた。緊急被ばく医療チームの活躍は福島でも目覚しく、大変頼もしく、誇らしい感じをずっと抱いていた。 病院長として、また4月から広島大学理事(医療担当)として、私が病院サイドで主に関わったことは、被ばくして緊急治療が必要な方が送られてきた時の受け入れ態勢の準備である。少数の場合は入院棟1階の三次被ばく医療機関の責務果たす学長特命補佐、前病院長 越智光夫高度処置室での除染、多数の場合はレジデントハウス駐車場で行うこととした。反対意見もあったが、除染テント4張を設置した。 搬送ルート決定のため、県内協力医療機関との患者振り分け順序等の調整をした。機器及び医薬品に関しては除染関係、ホールボディーカウンター(WBC)のセットアップ、医薬品等の準備を行った。 現地は医薬品、水、食料が不足していると考え、直ちに病院の保存食を半分送るように決めた。しかし輸送手段がなく、西田良一・前病院運営支援部長と相談し、浅原学長の了承も得て広島大学のワゴン車を使用することとした。保存食を満載した車がタイヤを軋きしませながら出ていくのを見た時、この大惨事が一刻も早く終息してくれることを心から祈った。 3月30 日、福島市に向かった。福島県の佐藤雄平知事と県立医科大学理事長・学長の菊地臣一先生にお会いし、今後の広島大学の支援の在り方を話し合うためであった。まだ道路は至るところに地震による災害の爪痕が残っており、ガソリン待ちで並ぶ車も多く見かけた。 その日嬉うれしいこともあった。食料品を送った車が現地で活躍していたこと、整形外科を通して長年知り合いであった菊地先生が訪問をことのほか喜んでくれたこと、神谷所長の福島県放射線健康リスク管理アドバイザー就任が正式に決定されたことなどである。佐藤知事、県議会議長をはじめ多くの方々とお会いしながら、広島大学病院はずっと福島に寄り添い、ご支援させていただくことを約束した。 緊急被ばく医療チームは医師、看護師、放射線技師、事務職員をはじめとして多くの方が福島に赴き、延べ人数は1,300 名を超えている。広島大学の職員に尊敬と感謝をささげ、一日も早い福島の復旧・復興を心佐藤雄平福島県知事(中央)と固い握手 より祈念して、筆をおくこととする。